ポル・ポトの没落
伝統的に、カンボジア人の間では、隣の大国であるベトナムに対する反感が強い。それはイデオロギーに関係なく、内戦中はロン・ノル政権、クメール・ルージュともに国内のベトナム人を虐殺・迫害した。シハヌーク時代に50万人いたベトナム人のうち、1970年まで虐殺と迫害を逃れるためにベトナムに帰還したのは20万人以上にのぼる。権力を掌握したポル・ポトたちは、ナショナリズムの姿勢を強め、東部国境でベトナムへの越境攻撃を繰り返し、現地住民を虐殺した。彼はクメール・ルージュのラジオの放送で「ベトナムを排除するのに洗練された武器は必要ない。歴史ある民族の各人が、その手で一人につき10人のベトナム人を殺せば足りる」とはっきり語った。これがベトナムの侵攻を招く要因になる。
1977年、ベトナム軍がカンボジアに侵攻、また親ベトナム軍が1979年1月7日、プノンペン入りを果たした。この時彼らは廃墟からカンボジア人が受けた虐殺を示す、頭蓋骨の山を見つけたという。クメール・ルージュ軍は敗走し、ポル・ポトはタイの国境付近のジャングルへ逃れた。1月にベトナムは、粛清を避けてベトナムへ逃れた元クメール・ルージュ構成員から成るヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)を成立させた。このことは東部カンボジアでのクメール・ルージュ構成員の広範囲な離脱につながった。離脱者の大部分は、ベトナム側が宣伝した「離脱しなければポル・ポト政権下での残虐行為が告発される」ことへの恐れによって動機づけられた。ポル・ポトは国の西部の小地域を保持し、以後も武装闘争を続けることになる。
以前にポル・ポトを支援した中華人民共和国は「懲罰行為」としてベトナムに侵攻し中越戦争が起こった。
ソ連に敵対したポル・ポトはタイおよびアメリカから直接的、間接的に支援された。アメリカと中華人民共和国は、ヘン・サムリン政権をベトナムの傀儡であるとしてカンボジア代表の国連総会への出席を拒否した。ポル・ポトが反ソビエトだったので、アメリカ、タイおよび中国はベトナム支持のヘン・サムリンより好ましいと考えた。
また、ポル・ポトとシアヌークおよびナショナリストのソン・サンの間の反ベトナム同盟を促進することを試みた(1981年9月4日3派合意)。ポル・ポトは、この終了を求めて公式に1985年に辞職したが、同盟内の事実上のカンボジア共産党のリーダーとして支配的影響力を維持した。
1989年ベトナム軍はカンボジアから撤退した。ポル・ポトは和平プロセスへの協力を拒絶し1993年の国連監視下での自由化された総選挙にも参加せず、新しい連立政権と戦い続けた。この選挙により弱体化したクメール・ルージュは1996年まで政府軍を寄せつけなかったが、軍が堕落し規律も崩壊し、数人の重要な指導者も離脱した。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
本名サロット・サルは、カンボジアの政治家です。